わがまち倉松の由来
わが町倉松町の昔むかしの庄屋さんは、名主代官といわれ、特に苗字帯刀も許されていました。また年貢の取り立てもして領主に納めていたそうです。 この年貢米を入れる大きな百俵倉が、わが村のど真ん中の松林に囲まれた所にあり、「百俵倉」と「松林」・・・この頃より、南風のある我々の村は「倉松」と呼ばれるようになりました。
倉松町は浜松市最南部の新津地区(新橋町・小沢渡町・倉松町・堤町・米津町・法枝町・田尻町・卸本町)に位置しますが、ちなみに「米津町」の「津」は湊を意味し、米の海上輸送を行う船着き場であったので「米津」と呼ばれ、「新橋町」の由来は現存しない高塚池と沼田池という二つの池に新しい長い橋がかけられていた事から「新橋」と呼ばれています。その他にも「小沢渡町」は沼や池や沢が多く「小沢渡」と呼ばれ、「堤町」は堤防があった事から「堤」と呼ばれています。
この倉松の地は明応七年(1459)と永久七年(1510)の二度にわたり地震や台風の高波が襲い、住民のほとんどが溺死したという大事件がありました。 倉松の地は荒野となり死んだ土地に変わりはててしまったのです。 そこに現れたのが「倉松」の再開発に乗り出した堀江村の彦右ヱ門なのです。 彦右ヱ門一族は共に倉松に移り住み開拓に精を出していました。後にこの地を彦右ヱ門新田と呼ばれ、この彦右ヱ門家は名主代官となり、領主の代理と数々の業績を残し年貢米の取立もしていたということです。
その後・・・
倉松の領主大沢家は、江戸時代に幕府高家として幕府に仕えていたが、明治維新の藩籍奉還の時、領地の石数を誇大報知ととがめられ、当主大沢豊寿は平民に落され、堀江家の名はわずか3年で消滅してしまいました。その後、浜松県、静岡県と改められ現在に至っています。
もう一言・・・
昔むかし、わが町倉松町だけが浜松藩ではなく堀江藩でした。ここだけが堀江藩という事で浜松藩で罪を犯した者や、思想犯、政治犯などが高飛びすると見せかけて倉松に潜んでいたそうです。
監修紹介
服部周平(はっとり しゅうへい)
浜松市砂山町生まれ。神立町在住。
印刷業界にて活躍し、46歳で独立。
その後会社経営の傍ら郷土史と触れ合う趣味を持つ。中でも原爆の投下訓練「模擬原爆」について精通し中日新聞の取材を受ける。その他公民館での歴史講座の講師や「そでしが森」「石造物」等郷土史資料作成の編集委員など多岐にわたり活躍。
この度、南風ホームページの郷土史「わがまち倉松町」の監修に携わる。
参考文献
- 「潮かおる 浜の里」 浜松市立新津公民館編
- 「美しかる可き里」 浜松市立可美公民館編
- 「ふるさと新津」 浜松市立新津公民館内新津婦人学級編
その他 多くの賢人の方にご指導ご意見を賜り完成しました。
本当に心より温かいご支援ありがとうございました。