わがまち倉松

ホーム > わがまち倉松

お台場

風雲急を告げる幕末(弘化3年)アメリカ東印度艦隊の2隻の黒船が遠州灘に現れました。浜松藩では海防が切実な問題となり、お台場(砲台)を建設する事となりました。

米津浜に築かれたお台場は3基ありました。「浜名郡史」によると、それぞれ高さ27m周囲72m、基部全面は全て石を積み上げ、内部に穴蔵を作り、上部には大砲を据え付け、穴蔵からは石の階段で上部に通じていたと書かれています。

村人たちが人手となって、このお台場を築き上げました。通常は軍役であるので無償の労働なのですが、今回は特別に給料が出されたようです。かなり急ピッチで建設された事が伺えます。

現在、3基のうち中央の1基だけが残されています。大砲はすでに取り払われていますが、長さ2m重さ200sもあったといいます。砲弾は人の頭ほどの花崗岩製で新津小学校の校長室に展示してあります。

射程距離は3.7kmくらいと言われていましたが、900mが精一杯であったようです。波打ち際にも届かない有り様だったようで、1発撃つとタマ拾いが走って行き、またタマを打っていたそうです。そんな様子を知ってか知らずか、黒船は悠々と走っていきました・・・。

ページの先頭へ

寿福寺

本多肥後守忠実(徳川家康の四天王の一人・平八郎忠勝の叔父)の長男として生まれた藤原菊丸は、分亀3年(1572)徳川家康唯一の敗戦として有名な三方原合戦(浜松市北部を舞台とした徳川対武田の戦い)に参加しました。その戦いで父の死に目にあい、無常を感じた菊丸は仏門に入る事となったのです。

30歳の頃、菊丸は東国に布教活動をしている途中、倉松村に立ち寄りました。旅の疲れか足の痛みを覚え難儀していると下位彦右ヱ門に助けられ、これが藤原菊丸と下位彦右ヱ門の運命の出会いとなったのです。

菊丸は新津の開発に掛ける彦右ヱ門の熱意に意気投合し、本山より山号寺号を賜りました。ここに寿福寺が始まったのです。以来、本多家が一貫して法燈を守ってきました。

遠州地方のお盆を彩る風物詩に遠州大念仏があります。新仏を供養するという宗教的行事を越えて、見物人と大念仏の集団とが一体となった魂の交流があるといわれています。この大念仏が戦前まで倉松町でもにぎやかに行われていたのです。壽福寺住職第五代の時、享保9年(1724)より倉松大念仏(通称とったか)が始まり、初盆の家を回っては笛太鼓鐘の合奏と独特の節まわしの念仏を供養しました。しかし太平洋戦争中の金属供出のため中止となってしまったのです。

もともと遠州大念仏は三方原合戦の死者を弔う事から始まったのですが、倉松大念仏がそれと関係があるかどうかは明確ではありません。

ページの先頭へ

いぼとり地蔵

昔、むかし(昭和35年ごろまで)倉松町には、火葬場(焼場)がありました。場所は健康広場の南側にて現在JAとぴあ集出荷場です。健康広場の東北の片隅には「いぼ地蔵尊」があります。

従来、亡くなった人を火葬する時親戚、知人にて棺桶を担いで野辺送り地蔵尊に手を合わせて火葬場に向ったそうです。その地蔵尊・・・野辺送り地蔵尊と地元の人たちは呼んでいたそうです。地蔵尊の横には松が[供え松]が植えつけられています。

地蔵尊には毎日、毎日となく花を手向ける人が絶えなかったそうです。献花のお金もかかるので、倉松は松の木が多く「まつかさ」・・・松の実・・・を地蔵尊の首にいつしか、かけるようになりました。

また、地蔵尊にお参りに来た人が「手足にいぼ」があり願かけした結果いぼが無くなったそれから「野辺送り地蔵」から「いぼ地蔵」に変化してきたそうです。野辺送り地蔵の横には「松」が植えられ死者を見送って今も先祖供養しています。

ページの先頭へ

虚空蔵様

毎年2月13日の虚空蔵様の大祭は近郷近在に知られ、遠州一円から15万人の参拝者でにぎわうほど、有名になっています。

進学ブームに乗って、縁日の盛況は年毎に高まり、大祭が2月11日〜13日までの三日間となりました。月例縁日は毎月13日に行っています。進学祈願や商売繁盛を願う参拝客が大変増えています。

大戦の波を受け、昭和20年6月18日の浜松大空襲で焼失しましたが、平成5年に現代風の堂々とした堂宇が完成しました。中央の本堂には虚空蔵菩薩が納まり、左右に張り出した翼舎には願望成就を願って眼を入れたダルマが納められ、屋根の上には大きな阿吽のダルマが左右にどっかりと乗っていて、遠くの方からでも「虚空蔵様」とよくわかります。
臨済宗方広寺派に属し、山号を宝的山、寺号を蔵興寺とも言います。

ページの先頭へ

米津六義人

今から250年程昔の安永2年(1772)の秋、米津の浜に紀州藩の御用船が遭難しました。米津の人達は村人総出で救出作業を行い、漂流した積荷を一つ残らず集めて差し出しました。

しかし、その船の修理を終えて出発する当日、「積み荷が不足している!盗んだものを差し出せ!」と厳令が下り、身に覚えがない村人たちは只々途方に暮れるだけでした。

藩に訴えても取り上げてもらえず・・・、御三家を相手では話にもならず・・・、 ついに隠居船の又三郎組頭が「自分が犯人と名乗り出る!」と申し出ました。

しかし、これを聞いた5人の組頭が「又三郎一人を犯人にするわけにはいかない!」と家族との別れの杯を酌み交わし、ともに江戸へ向かう事となりました。
村堺まで見送った村人の胸中はいかばかりだっただろうか・・・。

その後も残された村人は必死の助命運動を続け「200両の賠償金」という和解案を出されたが、当時の貧しい農漁村にとって200両はとても大金でした。しかし、6名の命には代えられず、土地から家からの家財道具等を売り払い血と涙の200両を藩の役所に持って行きました。しかし、この金さえも行方不明になり、その年の暮れ、無実の6名は小塚原の刑場の露と消えてしまいました。

この悲しい知らせを受け取った米津の人たちは小さな地蔵を近所のお寺にお祭りして末永く供養する事としました。しかし「罪人を仏として祀るとは何事か!」と叱られ、仕方なくお寺の境内の薮の中に密に埋めて姿を隠したのです。

悲しい由来も時代とともに忘れ去り知る人もなくなりました。昭和10年秋、寺の境内の拡張工事が行われた時、鍬先に触れ、掘り出されたのが一基の石地蔵だったのです。かすかに「江戸行」の文字と6人の戒名が並べて刻まれていたのです。昭和48年には200回忌を迎え、しめやかに二百年祭が行われました。現在は立派な地蔵堂に祀られています。
※江戸時代初期は一両20万円の価値があったが、幕末は物価が急騰し一両8万程度の価値となっていた。200両は1600万円程度だったと予想される。

ページの先頭へ

大通院

大通院は臨済宗方広寺派の中本山です。的伝一著大和尚(てきでんいっちゃくだいおしょう)が最初に草庵を結んだのは応永2年(1395)馬込川東岸・・・現在の佐藤町付近でした。
後に信者や僧侶が増え、手狭になったため荒地が広がっている新津の地に目を付け寺院の基礎づくりを始めました。それは応永8年(1401)のことでした。

その後、広大な敷地の中に4つの塔頭寺院(大きな寺の境内にある小さな寺)を作りました。今では、光勝庵、智勝庵、泰雲軒、竜珠庵のうち、残っているのは光勝院だけです。

大正15年(1926)10月3日に大きな火事があり、開山堂、舎利殿、庫裡など山門以外の堂宇は全て焼失しました。戦後、農地改革令の出るまではなんとか維持されていましたが、残念なことに同令の発令と共に不在地主の地として二束三文で処分されてしまいました。

僅かに残るは黒塗りの山門だけです。宝暦4年(1754)に再建されたもので朱塗りの光勝院の山門を赤門と呼ぶのに対し、黒門と愛称されています。

壮大であった大通院の名残を残すものは、この黒門と禁葷酒と刻まれた石柱、子供達から新津の森と親しまれている森と新津小・新津中・清明寮の広大な敷地だけです。

  • 草庵・・・藁(わら)・茅(かや)などで屋根をふいた粗末で小さい家
  • 開山堂・・・仏教寺院において開山の像を祀った堂のこと
  • 舎利殿・・・仏舎利(お釈迦様の骨)を安置した建物。内部に舎利塔を安置
  • 庫裡・・・寺院の僧侶の居住する場所
  • 堂宇・・・堂の建物
  • 禁葷酒・・・きんくんしゅ 葷とは、くさみのある野菜(ニラ・ニンニク・ミョウガ)のこと。それらの野菜や酒を飲んでいるものの入山を禁止するという事。

ページの先頭へ

4代目 山内蒙済

野崎のお医者様といえば骨継ぎ、骨継ぎといえば野崎のお医者様と蒙済様は遠州地方では知らない人はいないほど名医として有名でした。
昭和初期まで蒙済様には遠くから治療にくる客が多く。はるばる阿多古の山奥から戸板に乗せて病人を運んで来ても、三,四日宿泊してようやく順番が回ってくるという具合でした。その為、周辺は病人が泊まる宿として大いに賑わっていました。

山内蒙済6代目は、東京大学医学部を卒業し、順天堂大学の整形外科教授であり、付属順天堂医院院長を5年間務めました。山内蒙済の襲名は5代で終わった事になります。蒙済様の病院は平成六年に取り壊されてマンションが建てられました。屋敷の中に残った大松だけが昔を物語っています。

蒙済様には色々な逸話や伝説があります。このような話があります。 肘が外れた子供と母が、診察の順番が来て蒙済様の前に診察にきました。
「ぼうやまんじゅうをやろう。」
ついさっきまで泣いていた子供がニコニコし始めました。
それを見ていた蒙済様はすかさず用意してあったおもちゃの刀を取って、
「ぼうや、この刀を欲しいか?この刀をやろう。」
と、子供が手を伸ばそうとした瞬間、蒙済様はぼうやの腕を強く掴んで引っ張って、あっと言う間に治してしまいました。
控室に帰ってから坊やはこう言いました。
「かあちゃん、ぼく痛かったよ。」
「痛かったら、なぜ泣かないの?」
「だって、ぼく泣く暇がなかったもの。」

ページの先頭へ

音羽の松

小沢渡町の六所神社は若宮八幡社・若宮明神社・天神社・水神社・天白社・八王子社を合祀して六所神社となりました。

神社参道入り口に「名勝音羽の松」の碑があり、そこに一本の松が植えられています。これは「風土記伝」などに紹介されている有名な音羽松の2代目です。枝張りが約34メートルもある相当に美しい松の姿があったそうです。遠州灘からその姿が一望でき、福田半香や安藤広重もあまりの美しさにこの松を描いています。
この碑は昭和天皇の御成婚を記念して建てられたもので、背面には次の様に刻まれています。

古来颯々松又は小沢渡松と称す。枝葉20間4面に拡がる南遠州灘を航する帆船は之を目標としたりといえばその高きを知るべし。維新後衰えて、明治10年全く枯死す。里人其の名を惜しみ、二代目音羽の松を作る伝え言う

永享4年将軍足利義教駿河国へ下向の折、この松を愛でて「松の音はざざんざ」云々と詠まれたり。その故事によりて「ざざんざの松」と名づけたりとまた、曳馬駅を浜松と改めたのもこの霊松に因めるなりと記していて後世に言う。
大正13年3月26日建立 新津村

ページの先頭へ

冨春院

冨春院は臨済宗方広寺派で山号を「長生山」と称していましたが、現在では境内地の高い松の木に象徴されるように「長松山」といい、戦国時代の1555年2月寶室詮大和尚により開山されたと伝えられています。1534年に桃圓大和尚により開山された東光院と1576年に機庵大和尚により開山された泰龍寺と冨春院との三寺院が明治時代に合併して今日に至っています。

ご本尊は延命地蔵願王菩薩です。しかし、三寺院が合併したため、他の二寺院のご本尊である釈迦如来二体(薬師瑠璃光如来と十二神将像)と併せ、本堂正面の須彌壇の上には三体の本尊をお祀りしています。

また、長命健康を授かるという寿老尊天を祀っている冨春院は浜松七福神霊場七カ寺の一つです。その他、常久院の恵比須、円福寺の大黒天、甘露寺の弁財天、養源寺の毘沙門天、半僧坊浜松別院の福禄寿、好徳寺の布袋尊です。近くには浜名湖七福神もあり、ちょっとしたドライブにお勧めです。

ページの先頭へ

         

わがまち倉松

理事長ブログ