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1 パーソン・センタード・ケア
パーソン・センタード・ケアとは、とくに認知症のお年寄りが「その人らしく」暮らせるように援助することです。これはイギリスのブラッドフォード大学のトム・キットウッド教授が提唱したケアの考え方で、しばらく前から世界中の関係者たちの注目を集めています。彼の著書は、わが国でも『認知症のパーソン・センタード・ケア』として出版されています。しかし英語版の原題は『認知症について再度考える ― 認知症である前に、まず人間である』というふうに、従来の認知症ケアのイメージをくつがえす強いメッセージ性を伝えています。
アメリカのナーシングホーム(高齢者長期ケア施設)などでは施設ごとの独自性を出すために「パーソン・ファースト・ケア」「パーソン・ディレクテッド・ケア」等の名称も用いられていますが、'一人ひとりを中心にしたケア'という点ではみな同じ意味です。なおパーソン・センタード・ケアの対象には、施設で暮らしている入居者だけでなく、そこで働いている職員も含まれています。すなわちパーソン・センタード・ケアは、ケアを提供する人とケアを受ける人のすべてが「その人らしく」あることを目指しているのです。
パーソン・センタード・ケアでは、入居者たちが生きている喜びを感じたり、穏やかな気持ちで過ごしているとき、その人は「その人らしい状態」にいると考えます。逆に入居者が悲しみや寂しさ、退屈、孤独を感じているとき、その人は「その人らしくない状態」にいると見なします。ゆえに、この新しいケア方法の主旨は、お年寄りができる限り「その人らしい状態」で暮らせるよう、一人ひとりの状態やニーズに見合った個別的な援助を行うことなのです。
「その人らしさ」は一人ひとり異なっています。また、それは、その時々の気分によっても違います。ですから職員は、どうしてあげたらいいかを常に一人ひとりに尋ねる必要があります。たとえば、ある入居者がひとりで窓辺にすわり、外を眺めているとします。その人が穏やかな気持ちで外の景色を楽しんでいるのなら、それは「よい状態」であると言えます。しかし、その人が独りぼっちで寂しさをかみしめながら外を見ているとしたら、それは「よくない状態」であり、放っておくのはいけないことです。
パーソン・センタード・ケアでは、一人ひとりのニーズと気持ちに合わせた援助が求められます。それゆえ職員は、その人が、いつ、何をしたいか、どのようにして欲しいかを尋ねなければなりません。たとえば、いつ起きたいか、いつ、どこで、だれと朝食をたべたいかを確かめる必要があります。この点だけをとっても、パーソン・センタード・ケアは従来の施設で行われてきた「集団・一律処遇」とは相容れないものなのです。
最近、わが国でもパーソン・センタード・ケアの学習がはじまりました。しかし、パーソン・センタード・ケアが最終目標ではありません。じつは、この新しいケア方法の導入をとおして、いかに高齢者施設が生まれ変われるかが問われているのです。こうした改革は「施設のカルチャー・チェンジ」と呼ばれ、ケアのあり方、人間関係、入居者の自己決定と生活の選択、職員の働き方、権限の移譲、運営方針、命令系統など、組織内部で生起するすべての事柄の変革が求められていきます。
余談ですが、何年かまえに、認知症の人びとに対するパーソン・センタード・ケアという言葉をはじめて耳にしたとき、ふと「クライエント・センタード・セラピー」という言葉を思い出しました。これは、数十年前にアメリカの心理学者のカール・ロジャースが用いた有名な言葉です。彼の同名の著書(日本語のタイトルは『クライエント中心療法』)は、長い間、カウンセリングを学ぶものにとって重要なテキストとして位置づけられてきました。のちに彼は「パーソン・センタード・アプローチ」という言葉を用いています。
ロジャースは、その著書の中で、悩みを抱えて相談に訪れる人びと(クライエント)との間に共感的理解や、その人を受容する姿勢がなければ、よい援助的関係を築くことができないと述べています。彼は悩みや問題を抱えている人の相談にあたって、「その人らしさ」を大切にし、それをそのまま受け入れていったのです。おそらく、このロジャースが提唱したような援助的人間関係を大切にするという考え方が基底にあって、約半世紀後に認知症ケアの世界でパーソン・センタード・ケアが開花していったのだと思います。
ロジャースは"We should start from where the person is standing."と述べています。「私たちは、その人がいま立っているところからスタートすべきである」というこの言葉は、認知症とともに生きている人びとが今なにを感じ、なにを欲しているかを知ることに通じます。援助のスタート地点はこちら側(援助者側の都合や思い込み)にあるのではなく、あくまでも相手の側にあるのです。